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yasdさま
ご返答ありがとうございます 頂いたご情報、驚きますね。結婚あいてをまちがえることもないとは思いますが、フランス語の資料で確認させて頂きます、またお知らせ致します、岸
yasdさま 詳しくお知らせ頂きまして誠にありがとうございました。とても貴重な資料をご紹介頂きまして有り難く思います。お返事が遅れて恐縮です。ご提示頂いた内容を今後、「wcars会員の方からのご指摘で」として、何かの折に紹介させて頂こうかと思います。その際は事前に改めてお尋ね、お知らせ致します。ありがとうございました。岸
ヴェルディのレクイエムについては、放送映像などでオフィクレドを使っているのがみえることがありますよ。うちにも確か一つあったような。岸
Yasdさま
詳しく有難うございました。お返事が遅くなりました。来日公演のバンダについては、日本で用意することもありますが、《椿姫》の当該シーンは、実は、事前に録音した音源をそこだけ流す公演も結構あります。その点に私も気づくときと気付かないときがあります。音響さんが上手く操作できれば自然に聴こえますからね。今回の来日公演に関しては私自身はどちらとも判断しがたかったです。チンバッソとチューバですが、この前のソーニャ・ヨンチェヴァさんのリサイタルのとき、チューバ奏者の方が入って来られたので、「あれ、近代のもの?」と思ったら、ベッリーニの《カプレーティとモンテッキ》のシンフォニアで、結構驚きました。やはり、音量がまず違ってくるなと思います。いろんなプログラムの解説を書かせて頂きますが、1週間以上前に書いたものはもうすっかり忘れていて、ヨンチェヴァさんのリサイタルもこれから批評を書かねばならず、チューバ到来には触れざるを得ないかなと思っています。
岸
こんにちは 良くご覧頂けたようで何よりです 同じ演出の場合、前と同じカメラワークにするのは模倣にもなりかねず、どうしても変えざるを得ないのが、後から撮る方の難しさですね。ただ、後からやった人たちは先人の解釈を参考にして歌い演じることができます。各人の演唱の完成度の高さは、楽譜を活かしているかどうかにもよるので、全体を比較するよりも場面ごとで比較したほうがわかり良いでしょう。なお、ギロチン音は、楽譜にバツ印で出すタイミングが指定されていますから、これまた難しいのです。ズレてはいけないのです。音質も大変ですがタイミングも合わせるのが大変です。修道女たちの練習の積み重ねの賜物です。各人とも演技が違いますね。それをこなしながら、タイミング良く昇天するというのが非常に難しいのです
ちなみに、私の解説は、まだ仔細を発表出来ないのですが、決まっていますので(今年の秋)改めてお知らせしますね。VaPensieroさま
こんにちは。早速のご投稿を誠に有難うございました。
《カルメル会》、二つともご覧頂けて本当に幸いです私が昼食会の席で言及した昔の映像は、Vaさんがオンデマンドでご覧になったものです。
この演出の映像はその新旧二つしかなく、プロダクションのMET初披露の際には映像撮りをしていないのです。まず、1987年版は、主役のブランシュを演じたメゾ、マリア・ユーイングが素晴らしいのです。
彼女のエレガントな動きと滑らかな美声、決して瞬きをしない目の技と演技力のおかげで、
舞台が大変な集中力のもとに進んでゆきます。そして、フィナーレの処刑シーンですが、ブランシュ役の彼女がこっそりと現れる瞬間を
1987年の映像はしっかり撮影していますが、新しいライブビューイングではそこを映していないですね。
このように、新しいものと旧いものにはカメラワークの違いが歴然としてあり、他の修道女たちの
集中力も、1987年版の方が優れています。
あと、いま、思い出せる限りでは、1987年版だと、処刑のギロチン音が聞こえる寸前に、二人の衛兵がドアを閉めるしぐさを
びしっと入れますが、新しいものではそこをしっかり映していなかったのではと思いますね。
演ずる人たちとカメラワークのおかげで、同じ演出でも全然違うと私が実感したひとこまです。この辺りは、客席の皆さんそれぞれの感覚や経験の種類によっても変わってきますので、またじっくりご覧頂ければと思います。
なお、1987年の版をまだご覧になれるようでしたら、第1幕のブランシュ登場の際のユーイングの密やかな現れ方にも
ご注目下さい。ああいう動きを、ほかのオペラ歌手ではついぞ見たことがないですね。ユーイングの傑出した才能の証しとも思います。pelleas
お知らせ有難うございます!皆様に広く伝わればと思います。岸
Yasd様
いつもお世話になります。回答が遅くなりまして本当に申し訳ありませんでした。
その通り、以前資料として挙げたページそのものです。
訳詞上演の場合、〈コジ・ファン・トゥッテ〉の独語訳詞上演でもそうですが、
題名も変われば、登場人物名も変わっていたりすることがあります。
この場合は、もとのアルフレードがロドルフという役名に代わっているわけですね。
この「変更、翻案」の具合は、楽譜を作る人によって姿勢が違います。
すべて忠実に訳して音符は一切変えないというやり方が一般的かと思いきや、
19世紀までは翻案された形での訳詞上演が結構多かったという好例ですね。
この仏語版〈椿姫〉も、楽譜のタイトルは〈ヴィオレッタ〉です。
テアトル・リリックで上演するために楽譜が作られたヴァージョンです。
ヴェルディ自身が、その音符の変更に関わっていたということは、このビュッセルの回想録で
初めて分かりました。《アリアーヌと青ひげ》は声の力が要るので池田香織さんがやられるのは良いかと思いますが、あと、フランス語を立てて伝えられるかどうかという点が、声の力とは逆行する口の使い方になるので、ネイティヴでも難しいんですね。
時々、どこかで上演されますから、今後日本でも聴けるチャンスはあると思います。豊麗な音楽美の世界ですから、ぜひお愉しみに。
yasdさま ご投稿有難うございました。お返しが遅くなり申し訳ありませんでした。
日本のオペラに関する本で、一点、弱い部分と思いますのが、「ある一つの言語を信奉するあまり、他の言語を敵視するという人が多く、その場合、史料価値が高い文献でも存在を無視しがち」というところなんですね。「〇〇の専門家」と仰る方ほど、一つの言語でしかそのジャンルを捉えたくないという現象を、これまで数多く観てきました。ですので、私自身はそういうことにならないよう、曲目解説をするときには、複数の言語による資料類に必ず当たるんですね。そうすると、資料類の間違い(どうしてもミスタイプなどあります)にも気づいて、執筆の際に間違いは減ります。
デュカスの《アリアーヌと青ひげ》における音作りは、ドビュッシーの音型やハーモニーに、R.シュトラウス並みのオーケストレーションを宛がうという感じで、確かに仰る通りですね。以前、パリ・オペラ座の来日公演があったとき、《アリアーヌと青ひげ》を持ってきてくれたのですが、その際は、解説を書くために渡仏した(劇場側のお招きで)んですよ。バスティーユの大劇場に著名な演奏家がたくさん来ていました。私自身はその前にチューリヒでもこの作品を観ていて、中サイズの劇場だと、本当に音の洪水と言う感じになりました。アリアーヌ役は大体、ワーグナーを歌うような厚い声のソプラノ(もしくはメゾソプラノ)がやります。
yasdさま:細かくお知らせいただき有難うございました。いろんな資料が少しずつ明らかになれば、これからも、より詳しく、深く、対象と向き合うことが出来ますね。あの三重唱は、エルヴィーラのパートが声のテクニック的に結構な難所を抱えていて、演技をしながらだとそこが上手くゆく行かないではらはらさせられたりします。でも、それだけ難しいからこそ、すべてが上手く運んだ時の水準は非常に高くなるのでしょう。岸
Yasd様
ご投稿有難うございました。返信がずいぶん遅くなりまして、申し訳ありませんでした。お待たせしました。
あの《お菊さん》の成功はピアノの方の技量によるところが相当に大きいと思いますね。そして、訳詞も本当に良かったと思います。
ソプラノの二重唱ですが、譜面通り歌われていました。スコア上では、お菊さんの方が声が多少強い(今回のお菊さん役の方ではなく、初演の時のソプラノ)とはいっても、《フィガロの結婚》の伯爵夫人とスザンナぐらいの違いで、スザンナが下を歌うようなものなのです。ベッリーニの《ノルマ》も初演の際はアダルジーザの方がノルマよりも高い声の歌い手が担当しましたが、二重唱ではアダルジーザの方が三度下の音程を歌います。たまにそういうことがありますね。《コジ・ファン・トゥッテ》のグリエルモとドン・アルフォンソも、若者グリエルモの方が、老哲学者ドン・アルフォンソよりも音域が下のことが多いですね。メサジェは、お菊さんメインということで優先させたかったのでしょう。
岸今日、見てきましたが、腕を組まれているのはティト・ゴッビですね。あと、ミシェル・ル・グロッツも印象的でした。ほか、作曲家ギュスターヴ・シャルパンティエの最晩年の一枚も本当に若々しく、驚きました。かんどうしました。岸
yasdさま
いつもありがとうございます。近々観に行って確かめてみます。情報ありがとうございます。岸
yasdさま
ありがとう御座います。今回は本当に皆さん頑張られていると思います。オンステージ新聞の次の号に載ります。また改めて、正確な発売日をお知らせします。岸
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