(このたび、この連載が先に書籍化され、『ワーグナーとロッシーニ 巨星同士の談話録 1860年3月の会見』と題して八千代出版社から発売されました。本連載では引き続き、本文のみの掲載(訳註無し)を続けて参ります)
ロッシーニ:「おっしゃる通りです。あの場面は、苦労なしにはまいりませんでしたが、確かに私の指示により、大いに変更されました。友人、アグアード39の田舎の住まいで夏を過ごした時に《ギヨーム・テル》を作曲しました。その時、手近に台本作家たちはいませんでした。(後にルイ=フィリップ政権に反対する「謀反人」となる40)アルマン・マラストとクレミューが、同じようにアグアード邸を保養で訪れていて、私が必要とした、テキスト変更や作詞法で力を貸してくれました。そうすることで、しかるべき方法で、ジェスレルに反する「私の謀反人」の計画を企てることができたのです。」
ワーグナー:「マエストロ、それはつまり、私の今述べたことを、既に部分的に確認する、言外の承認と言えましょう。原則を、より広くとらえさえすれば、私の考えが、一見した時に思えるほど、矛盾していたり、実現が難しくないことが、証明できるのです。
私が一人で産もうと慢心していると、人々がどうしてもみなしたがる「未来の音楽」ではなく、「楽劇の未来」が、おそらく緩やかな、全く自然な変化により、生まれるのは、論理的に避けられないと、はっきり申しましょう。皆がその流れに加わり、そこから、「作曲家」や「歌手」、「観衆」という概念の、新しくも豊饒な方向性が出現するでしょう。」
ロッシーニ:「それは要するに、根本的な大変化ですね!そして、「歌手たち」―まず彼らのことから話すなら―自らの才能を、高い技巧によって前面に出すことに慣れ、―私の推測が正しければ―一種の「朗誦的メロペ」がその技巧に代わることになる「歌手」たちや、敢えて言えば、古臭い流儀に慣れた「観客」が、過去の全てをそんなにも破壊するような変革に、ついには従うだろうと、貴方はお考えですか?私には大いに疑わしく思われます。」
ワーグナー:「間違いなく、教育に時間を要するでしょうが、実現されるでしょう。それに、観客が大家を磨くものでしょうか、それとも大家が観客を磨くのでしょうか?これもまた、まさに貴方の例が、名高い証拠のひとつといえます。
実際、貴方独自の作法こそが、イタリアにおいて、先人らを全て忘れさせ、また、前例のない速度で、他に類を見ない人気を、貴方に得させたのでは?それから、マエストロ、貴方の影響力は国境を越え、普遍的になったのではなかったでしょうか?
歌手が抵抗するのでは、とのお言葉ですが、そもそも、彼らを高めることになる状況に、彼らは従い、受け入れざるを得ないでしょう。新たな形式の音楽劇が、主に、肺の強さや、魅惑的な声のもたらす優位に起因する、安易な好評の要素を、おっしゃる通り、与えてくれないことに気づいた時、彼らは芸術が、より高尚な使命を求めていることを理解するでしょう。自らの役の、個人の限界の中で、孤立することを諦めざるを得ず、作品を支配する哲学的、美的精神と一体化するように彼らはなるでしょう。こう言うことが許されるなら、「いかなるものも全体の一部であるため」、どんなものも二次的でありえないような環境の中で、彼らは生きることになるでしょう。加えて、つかの間の高い技巧による、一時的な好評に浴する習慣を失い、平凡な押韻の並ぶ、無味の歌詞にのせて声を響かせる拷問から解き放たれ、自分の演じる登場人物の、ドラマにおける存在理由を―心理的・人間的観点双方から―完全に洞察し、体現した時、また、劇の筋の展開する時代の考え方や習慣、特徴に関する深い研究をよりどころにした時、真実味と高貴さに満ちた、堂々とした朗誦法に、非の打ちどころのない発声法を併せた時、より栄光に満ち、持続的な威光を自身の名にまとわせることが、どれだけ自らに負うことか、彼らは気づくでしょう。」
ロッシーニ:「「純粋芸術」の観点からすると、おっしゃることは視野の広い、魅力的な展望なのは疑いないでしょう。しかし、特に楽式の観点からしますと、申しました通り、不可避的に、朗誦的メロペへの到達を意味するでしょう、つまり、「旋律の廃止宣言」です!でなければ、厳密なリズムと、構成句の対称的な符号が、その容貌を確立する、旋律の形式に調和するように、ことばの各音節の表現をいかにして、記譜するのでしょう?」
ワーグナー:「確かに、マエストロ、このようなシステムを、そこまで厳格に実施すると、耐え難いものとなるでしょう。しかし、ご理解頂けますならば、こういうことです、旋律を拒絶するどころか、私は、逆に、「なみなみと」旋律を懇望します。旋律こそ、あらゆる音楽的有機体の開花したものではないでしょうか?旋律なくしては何も存在せず、存在し得ません。ただ、因襲的な手法の、狭量な限界に閉じ込められ、対称楽節や、固執律動、予定された和声的反復進行、決められた終止形の、軛を甘受する旋律ではない旋律を、私は懇望するのです。「自由な」、「独立した」、束縛されない旋律が欲しいのです。その特徴的な輪郭のうちに、他の人物と混同されないよう、「各登場人物」を特化するばかりでなく、ドラマの構成に固有の「ある事柄」、「あるエピソード」をも特化する旋律です。数多の抑揚により、詩的テキストの意味に従いながら、作曲家の狙う音楽的効果の要求する条件に合わせ、延びたり、縮小したり、広がったりできる41、明確な形の旋律です。このような旋律といえば、マエストロ、貴方ご自身、《ギヨーム・テル》の「動くな」の場面で、至高の代表例を形式化したではありませんか。そこでは、確かに自由な歌が、ことばひとつひとつを強調しながら、かつチェロのあえぐような走句に支えられて、歌劇的表現の最高峰に達しているではありませんか。」
