ウィーン便り 第15回

ウィーン便り 2022年4月  佐藤美晴

 4月から5月は、ぼんやりしていると皆に置いていかれそうな気に襲われます。ウィーンは春がとても短く、冬が終わるとすぐに夏がやってきてしまうのです。凍えるような寒さに覆われ、雪と雹で街が白く覆われたかと思うと、突風が吹いて初夏を思わせる暖かい日差しが顔を出し、街は様変わりします。アイス屋にはすぐに行列ができ、街を歩きながらアイスを食べ歩く老若男女、そして市民公園で寝転んでピクニックする人たち、まさにウィーンらしい風景です。

写真1:シェーンブルン宮殿でのイースター祭り

 コロナ規制は日々緩和へと向かい観光客も増えていますが、感染者は依然多いため油断はできません。しかしながら、ついにオペラ劇場で働く人たちには、毎日のPCR検査義務がなくなりました。その理由は感染者が減ったからというわけではなく、国がPCRの無料検査に制限を設け、無料検査が一ヶ月あたり一人5回までに踏み切ったことにあります。劇場は、検査費用を自力で手配することが難しくなったのです。この半年、毎日PCR検査に抗原検査と1日3回も検査をし続けてきたものがなくなるというのは、スタッフにとっては生活の大きな変化でした。3月に訪れたロンドン、4月に訪れたスロヴェニアのリュブリャナでは、屋内でもマスク義務がなくなり、コロナ前に近い状況になっていましたが、オーストリアでは未だマスク義務があり、慎重な姿勢が伺えます。それにしても、コロナ反対のデモも最近は随分見かけすことが少なくなりました。ワクチン義務化も実質上はなくなったこともあるかと思います。開放感もあるのか、これからは光を見て進むしかない、という前向きな雰囲気を感じられます。ウクライナ難民を街で見かけることは日常的な光景となってきました。

<マーラー「こどもの不思議な角笛」>

写真2:音楽劇「こどもの不思議な角笛」チラシ

 まずは春の訪れとともに嬉しいお知らせを伝えさせてください。ついに、6月18日にウィーンで演出デビューが決まり、公開されました!作品名は音楽劇マーラー「こどもの不思議な角笛」で、音楽劇作品として私が構成台本を書き、演出を担当しています。劇場はウィーンの中心地6区にあるTheater Arche、100人ほどの素敵な小劇場です。出演は、フォルクスオパー専属歌手のバリトン、ミヒャエル・ハヴリネクさんとウィーン在住のソプラノ岡崎麻奈未さん、そしてウィーンでの経験豊富な俳優たちです。音楽監督はウィーン国立音大に飛び級16歳で入学した気鋭の音楽家、児島響さんと、豪華な顔ぶれです。この作品は私が以前から温めていた作品で、今回ようやくウィーンでこの理想的なメンバーと上演できることを、とても嬉しく思っています。しばらく毎日、マーラー漬けの日々となりそうです。私にとっては演出の仕事ではヨーロッパデビュー、今は全力をかけてこの作品に取り組んでいます。

<新制作「トリスタンとイゾルデ」>

 ウィーン国立歌劇場で働く生活も続いています。出演者として参加した「ヴォツェック」公演では、無事にライブ世界配信が終わりました。

写真3:「ヴォツェック」では医学生を演じました。右端が筆者。

 それと並行して、イースター休暇中に初日を迎える「トリスタンとイゾルデ」(カリスト・ビエイト演出)が制作されており、私は初日を迎えるまでの2週間ほどの期間、テクニカル中心の舞台リハーサルでスタッフとして数日間働きました。短いながらもあまりに濃厚な日々でした。

 演出家のビエイト氏はかなり過激な演出をしてきた方ですが、実際にお会いすると噂通りの魅力的な方で、劇場ホワイエ内のマーラーザールで開催された演出家トーク(Regieportrait)も、彼の演出の深淵に触れるような内容でした。今回の舞台でも歌手たちは、いわば人間の生の限界の状況を演じています。1幕の舞台はプールとブランコだけ。歌手たちは子供のように水しぶきを上げながら走り回り、ブランコ遊びに夢中になっています。2幕ではトリスタンとイゾルデは吊されたおりの中で暴れながら絶叫し、壁を破壊していくというもの。3幕では崩壊した地で、30人の全裸の助演たちも登場します。強烈なイメージの連続で、演出の意味を問いはじめるとオペラの内容についていけなくなってしまいそうです。

 ゲネプロは関係者席と27歳以下の若手に向けて公開され、舞台袖からこの舞台を観てきた私もやっと初めて、客席側から鑑賞することができました。1幕終わりには、ゲネプロでは珍しく複数から激しいブーイングが起こり、それほど今回のトリスタンは「特別な舞台」だったということを表していました。

 その後休憩が終わって2幕が始まる前、劇場ディレクターのボグダン・ロシュチッチが上手から登場し、彼のかつて見たことのないような険しい表情に、私は何か事故があったのか?ゲネプロが中止になるのか?と思ったのですが、しかし、彼は次のことを、静かに、しかし強い口調で、話し始めました。「今日はゲネプロです。これが最後のリハーサルです。今日の舞台を最終調整して皆が公演に向かいます。そのリハーサルに無料で来て、ブーイングをする方は、家に帰ってください。とても失礼です。ブーイングするなら公演チケットを買ってください。」その後、いかに出演者やスタッフが、最後のリハーサルに思いをかけて臨んでいるか、力を込めて、丁寧に、じっくりと、話しました。最後に「ゲネプロでブーイングする方は家に帰ってください。ブーイングするなら、チケットを買って来てください。」と強い口調で繰り返し、最後まで険しい表情を変えずに退場しました。

 ロシュチッチ氏の退場に、客席からはブラボーの嵐が湧き起こりました。舞台と客席が、呼応していたすごい瞬間でもあり、私も感動していました。今回の劇場ディレクターの発言には、アーティストやスタッフへの深いリスペクトがありました。尊敬、劇場への愛、そして怒り。どれも人間味のある言葉で、トップである人間の、そういう人間らしさを垣間見た時に、人は心を動かされるのだと思います。

さて、それはさておき、この演出は賛否両論。私の個人的見解は、独創的なアイデアは多くの部分でうまく機能しなかったというネガティブなものです。とはいえ、演出家の独創性と彼のチームから学んだことは大きく、このプロダクションに参加できたことは、生涯忘れられないであろう、大きな経験となっています。

写真4:「トリスタンとイゾルデ」演出家トーク。劇場ロビー内のマーラーザールにて行われた。

<新作バレエのリハーサルに参加>

 色々と思いがけないことはあるもので、4月は新作バレエ「“四季”(ハイドン)」(オラトリオのバレエ化)のリハーサルに呼ばれ、急遽参加することとなりました。普段はバレエといえば、リハーサル室の前を通りかかった時に遠くから少しだけ見えるミステリアスな世界で、その中に入ったことは新鮮でした。20代の頃は新国立劇場のバレエ部門でよく照明キュー出しの仕事をしたことを懐かしく思い出し、久しぶりのバレエの現場がウィーン国立歌劇場になるとは、嬉しい想定外でした。あるリハーサルでは、私は髪の毛を真っ白にスプレーで染めて、舞台に立つことになり、私だけがバレリーナではないのに舞台に照明を受けて立ち、周りでは一流のソリストたちが踊っている、という夢の中のような不思議な状況でした。この際、日本人プリンシパルの皆さんともお話しすることができ、一期一会の幸せなひと時でした。

 4月の終わりにはこの「四季」のゲネプロが行われ、観客席から拝見しました。フォルクスオーパーのバレエ団とともに大人数が踊り、劇場専属歌手と合唱がハイドンを歌い上げる壮大な舞台を堪能しました。鑑賞中はマスクを外して見ることができるようになっており、1年前はまだロックダウンだったことを思うと、本当に大きく変化したと感じています。

写真5:バレエ「四季」

<トレイラー出演>

バレエの後は劇場の次シーズンの予告動画に出演することとなり、劇場客席での本格的な映像撮影に参加しました。監督の求めに応じて、私は今回髪を切ることになり、劇場でソリストがいつも使用しているメイク室(Goldner Saal黄金の間と呼ばれています)を独占で使わせてもらい、隣では練習中のソリストの声が聞こえてくるという、なんとも特別な贅沢な時間でした。今回の撮影は普段とは真逆で今度はクローズアップの世界で、音楽に感動して涙する場面や、オペラを観てカップルの愛が深まり手をにぎり合う場面などを、ハイビジョンカメラで撮影しました。同性愛者のカップルの手の撮影は、監督のこだわりもあってかなり時間をかけて作り、美しいものに仕上がったと思います。この予告動画の出演俳優は7名でしたが、全員がウィーン国立歌劇場の常連出演者で、私もその仲間入りができたことは光栄でした。撮影の間はしんみりしてしまって、この1年半、劇場で過ごした長いようで短い日々をフィードバックしていました。

4月の終わりには次シーズンの記者会見が行われ、劇場はその話で持ちきりです。今シーズンも残り後2ヶ月、私も自分の演出するマーラーとじっくり初夏を味わおうと思います。