Opera Hong Kong (OHK)「蝶々夫人」公演参加の記録
メゾソプラノ 鳥木弥生
9月5日に東京から香港に入り、3週間以上が経ちました。
10月6日から10日までの公演に向け香港文化センターのリハーサル室において稽古が進んでいて、明日からは同じ建物内にあるオペラ劇場に場所を移します。
(香港文化センター外観)
私がこの公演の出演オファーを受けたのは2021年5月半ばでした。
イタリアのエージェントから、最初は役名と、2021年9月から10月半ばまでのスケジュースはどうか、という連絡だけだったので、もちろんスズキはやりたい役ではあるけれど、まずは公演はどこで行われるものなのか、ということと、日本のワクチン摂取がとても遅れていて、ワクチン摂取が条件であれば参加は不可能かもしれない、という返答をしました。
公演の5ヶ月前と時期が近いのと、もちろんコロナ禍ということもあり、何か事情があってスズキ役を探しているのだろうな、と思い、香港に歌いに行ったこともないし、すでに発表されていた指揮者や演出家の名前を見て、ぜひ行きたいとも思ったものの、きっと実現は難しいだろうな、と感じていました。
それでも、秋までにワクチン接種ができる可能性はあるか?もしワクチンを受けれなければ稽古開始前に香港のホテルで3週間の隔離生活をすることはできるか?と、改めて打診があったので、3週間の待機を覚悟し、日本での8月後半から9月前半の仕事を整理しました。
少し面白いことに、こちらに来て出会った香港在住のオペラ好き、舞台関係の日本人に方々からも、私の名前がクレジットされていたのを見たものの、今、日本から歌手を呼ぶなんて絶対に無理で、他の人に変わってしまうに違いない、と思っていた、という話を聞きました。
入国手続きについてはその後も何度も変更があり、ワクチン摂取後の抗体量が充分なら待機が1週間になる、という時期が一瞬だけあったのでそれを狙って検査をしたり(結局はブレイクスルー感染があると分かってその措置は無くなりました)、検査の方法、ワクチンの種類や接種時期などの細かいチェックを経て、結局は2週間のホテル待機となりました。少々振り回されもしましたが、むしろ運が良かったと思っています。
ワクチンを摂取したものの、種類や摂取時期の問題で3週間待機になった歌手も2人いたからです。
2週間と3週間の差はなかなか大きいもののようで、たまたまピンカートン役の2人が3週間待機だったのですが、隔離を終えた初日は二人とも一日中、何をしても、何を聴いても涙ぐんでいるような様子でした!テノールだから特に繊細……ということでもないと思います。
とはいえ、香港政府による対処の変更も、政府の都合等ではなく、ウィルスやワクチンについての新たな専門的な見解に基づいており、少々振り回されもしましたが、いずれも納得いくものでしたし、劇場からの指示も非常に的確でした。
香港では現在(9月28日)1ヶ月間市中感染ゼロが続いています。しかし、空港や隔離ホテルではまれに陽性者が出ており、もし同じ飛行機から数人の感染者が出た場合はその飛行機の発地からの便は一定期間香港に着けなくなったり、香港在住者が二週間ほど外に出ていて帰った時に陽性だった場合は、香港内のその人の居住地もロックダウンとなり、全住民が検査を受ける、など、念入りな対策がなされています。
公共の施設に入る際のスマートフォンアプリによる記録や、マスクの装着も、厳しいと思われながらもしっかり守られているのは、世界中でも稀有に対策が成功しているという意識が香港の住民にあってのことのようです。
実際私も、たくさんの検査と書類の提出や、2週間待機、ホテルのドアの内側に貼られた「もしここから出たら罰金2万5千ドル及び禁固6ヶ月」という警告には、違反して捕まるまでもなくすでにこれは一種の刑罰?とも感じましたが、日本の感染状況は香港とは比べるまでもなく、毎日のように日本の同僚、知人が感染してしまったという知らせも来るし、ここまでして(ホテルでの待機にかかる高額な費用などは劇場が支払います)危険な日本からのゲストを受け入れてくれてありがたい、という気持ちと、久しぶりにある程度安心してオペラ公演に挑めるという喜びの方が大きく優っていました。
隔離待機中は、単調な毎日になることを予想し、この機会に、と、インスタグラムライブを利用しての14日間連続対談を企画し、出発前に15人の方々にゲスト出演を依頼しました。
実際、ホテルのひと部屋に閉じこもっての14日間は単調ではありましたが、毎日ライブの告知と、協力を申し出てくれた映像技術の方との編集作業などをしたり、帰国後の公演の打ち合やリモートでの稽古などにも参加しているうちに、2週間が過ぎました。
(10/29公演「フィガロの花園」の稽古にリモート参加。ソプラノ森谷真理さん、テノール所谷直生さんと)
あとは日本から持参したNintendo Switchのリングフィットアドベンチャーで筋トレに励んだりもしていました。
劇場側からも、寂しく感じないように、ということもあってか、香港到着後にコンタクトがあり、出演者、指揮者、スタッフのチャットグループが作られ、毎日何を食べているか、何をしているかなどを連絡しあい、対面するより前にチームの親睦も深めることができました。
ポーランドから来たシャープレス役のバリトンは毎日部屋の中で1万歩も歩くというストイックさで、皆を驚かせていました。
OHKはすでに海外からのアーティストの参加による「カルメン」を2021年5月に行っており、ノウハウもあり、その点でも信頼があり、安心して過ごせたように思います。
香港到着から待機期間中の感染予防対策について思い出してみると、空港ではまず日本での出発前PCR検査の結果と、香港での隔離ホテルの予約表、体調、滞在中の連絡先の確認があり、その後PCR検査、そしてその結果を4時間ほど指定された場所で待ちました。
その後、隔離ホテルには、隔離者の到着時以外は締められている入り口に到着し、まず降ろされた我々のスーツケースに物凄い勢いで消毒剤が噴霧されていました。私はその様子をリムジンバスの中から、本当は我々にも直接あれを噴霧したいんだろうなあ……と思いつつ眺めていました。
隔離場所は香港市内の中心地にあるシェラトンホテルで、ホテルの食事や差し入れなどは各部屋の前に設置された台に置かれます。隔離中の宿泊客が部屋のドアを開けていいのはそれらを受け取る際と、PCR検査のために検査員が訪れた時のみで、先ほども書きましたが、違反するとまあまあ重い罰があります。
食事は8種類の朝食と、昼食、夕食は、毎食ベジタリアンメニューを含む5種類から選択して、前日に電話で注文します。時間も選べ、タッパーでに入っているのが味気なくはありますが(途中でネットスーパーを利用してお皿を買いました!)、普通に暖かいものは暖かく、冷たいものはちゃんと冷たい、美味しい食事です。受け渡しは対面なのかと思っていましたが、まさかのピンポンダッシュ!(笑)
以前は手渡しだったのですが、受け渡しが原因と思われる感染が起こったことがあり、この形になったようです。
日本の隔離ホテルではメニューも時間も選べず、お弁当が全室のドアノブにかけられて長ければ1時間近く経って暖かいものもすっかり冷めた頃にようやく、ドアを開けて取っていいよ、という放送が入った、という話を聞き、それに比べたらなんて親切なんだろう、と思い、また、食事のたびに「ごんぎつね」のお話を思い出していました。
ホテル生活としては珍しい経験だと感じたのは、清掃にも入ってもらえないので、掃除用具やリネン類の替えがすでに部屋の中にあり、自分で掃除やベッドメイキングをしなければならないこととでした。洗濯は普段でも滞在が長ければホテルで手洗いすることもありますが、も、洗剤がおいてあり、バスタブを使って毎日洗濯をしたり、アイロンがけをしたりも。
ちなみにシャープレス役のひとりであるイタリアの若者は、隔離中にためた洗濯物(下着と部屋着)を隔離後に移った5つ星ホテルのランドリーサービスに何も考えずに出し、全部買い直した方がずいぶん安く済んだであろう金額を払う羽目になっていました!
今は海外から参加した全員が隔離ホテルを出て、こちらも香港市内の中心地で、劇場からも近いラングハムホテルに滞在しています。
たくさんのアーティストを海外から招聘して歓待してくれる事に感謝しつつ、私が貧乏性なのか、少し大袈裟にすら感じていますが、やはり隔離生活は人によっては非常に難しいと思うので、その後、このようにサービスが行き届いた(ランドリーサービスは高額ですが!)ホテルに滞在できているというのは、アーティストにとって稽古の効率や、パフォーマンスのためにとても良いことだと感じています。
私はスズキがシングルキャストということもあり、全く休みはないのですが、毎日行き帰りに見ることが出来る港の風景と、マスクを通しても感じることが出来る水の匂いに癒され、パワーをもらっています。私の出身地である七尾の港とはかなり発展度が違いますが……。
韓国、ロシア、ウクライナ、ポーランド、スロヴェニア、スイス、イタリア、と、各地から集まったアーティスト、スタッフは皆、芸術家としても職人としても優秀で、指揮者のイブ・アベル氏がまだ隔離機関中だった4日間で「蝶々夫人」全三幕の立ち稽古をあらかた終えて、今は隔離を終えたマエストロ音楽稽古をしながら、演出とのタイミング合わせと、ブラッシュアップの段階に入っています。
劇場での稽古の様子などは、また続きとして書かせていただいたらと、と思いますが、今回は最後に、スズキが2幕冒頭で鳴らす「おりん」がある日稽古場で、突然巨大化していて驚いたことだけ、お伝えしておきたいと思います。